言の箱庭

文章が好きな20代の独り言です。

障害

 

広汎性自閉症スペクトラム

 

これが中学1年生の頃私についた診断名。どういう意味かと言えば発達障害が色々入ってますよーってことらしいので明確にこれ、と言われた訳では無いということを念頭に置いて書こうと思う。

 

当時の私は問題行動が多かった。そして当時自覚は無かったがおかしな行動も。

私は相手の気持ちがわからなかった。

私は言葉の裏が読めなかった。

私はすぐパニックを起こした。

私は臨機応変が苦手だった。

私は集中力散漫だった。

私は衝動的に動いた。

そんな私は、典型的な発達障害児だった。

決して頭が悪い方ではなかった、と自分では思っている。少なくとも学年上位に食い込む程度には学力面は良好、客観的に見ることが出来たなら年相応以上の思考は出来ていたし今も出来る。ただ、自分のこととなるとてんでダメだった。

 

こんなエピソードがある。

私には2歳下の妹が居るが、まぁそれはそれは親が呆れるくらい頻繁に喧嘩をしていた。小学生に上がってからどんどん口が悪くなった私は妹を力でも口でもやり込めて威張っていた。そこしか勝てるところが無かったからなのだろうと今になれば思うが妹にとってそんなこと関係ない。酷い姉だった。

ある時喧嘩の最中、私は妹が大切にしていたものを壊した。何がきっかけの喧嘩だったかなんて思い出せないし覚えているわけもない。ただ、いつものように頭に血が上った状態で私はどうすれば妹に最大限ダメージを与えられるのか考えて実行に移した。妹は勿論泣いた。そして私は両親に怒られた。当たり前だ。

ただ、私は怒られたこと自体不服だった。喧嘩両成敗という言葉があるではないか、なぜ私だけが怒られるのだと。自分がしたことは棚に上げてそんなことを宣った。その時親に言われた。

「妹の気持ちになって考えなさい」

わからなかった。

すると、「じゃあ自分の大事なものを壊されたらどう思うの」と聞かれた。嫌だ、と答えた。「妹もそうだったんじゃないの」と言われたが、

わからなかった。

何故自分と同じ感情になると思えるのかが当時の私には理解出来なかった。私は私で他人は他人、それに当て嵌めたら妹は妹なのだから妹が何考えてるかなんて分かるわけがないだろう、と。物語の登場人物を見ているかのように想像することは容易かった。けれどそれが現実の妹に当て嵌るわけがない、と何故か確信していた。

 

こんなエピソードもある。

普段男友達が多い私にしては珍しく、女子のグループに所属していた時期があった。小学校高学年の頃である。

ある日1人の女の子が学校にストラップを持ってきた。その子曰く、みんなでランドセルにつけてお揃いにしよう!と。みんなそのストラップを見て、可愛い、嬉しい、とはしゃいでいたが私はお揃いにする意味も、そのストラップの可愛さも何もわからなかった。ありがとう、と言ってその時は受け取ったが部屋の引き出しに即座に仕舞ってそのまま存在を忘れた。

数日後、ストラップをくれた子が「何でつけてないの?〇〇ちゃんだけだよ、つけてないの」と言ってきた。私はランドセルにつけたくなかったからつけてない、と素直に言った。

「最低」

その言葉から、私に対する無視が始まった。

 

ずっとずっとそんな人付き合いを続けてきた。今となっては参照できる経験が増えたので失敗することも減ったが、未だに咄嗟の判断や雑談となると苦手で、気付いたら周りが白けてるように見える。

酷いパニックはほとんど起こさなくなったが、軽微なパニックは日常的にあったし、そうなると一気に疲労がくる。

私の目は見たものを鮮明に記憶してしまう、俗に言う“カメラアイ”というもので、全て覚えてしまう訳では無いのでまだマシかもしれないが記憶容量をそれだけ圧迫してしまう。少しでも意識したり集中したりして見れば写真のように思い出せるようになるのだから当然だ。

そして私の耳は音の取捨選択が苦手である。人の話し声、機械音、アナウンスや車の音、それらを全て同じように受け取ってしまい、日々頭の中が溢れかえりそうになりながら日常生活を送っている。

 

少し前までは学校や部活、バイトなどが終わって家に戻ると死んだように眠るばかりで、玄関先で倒れ込んでいるのはいつもの事だった。情報の処理に頭を使いすぎて家での生活を送る余力が無くなるのだ。目から、耳から、人間1人が必要とする以上の情報を得てしまうから。そしてそれにいちいちパニックを起こしては疲労を蓄積させる。それでも家に戻るまで気力で持ち堪えられるのはひとえに障害が重度でないからだろうと思う。

 

今現在、経験を積むことによって何とか人並みの生活を送れるまでには成長することが出来た。それでも決して障害が治った、とは言えない。発達障害は治らないものだから。生まれつきの脳の欠陥によるものだから。ただ、ここまで成長できたのは私自身の努力の成果であり、それを支えてくれた周囲の人の功労であろう。それは誇りたいし感謝し続ける。